2020年は、同人誌即売会の歴史において忘れられない年となりました。私は、このC98こそがコミケの新たな可能性を切り拓いた転換点だと確信しています。
本来であれば東京オリンピックの影響でゴールデンウィーク開催となるはずでしたが、新型コロナウイルスの影響で中止を余儀なくされました。しかし、そこで生まれたのが「エアコミケ」という新しい文化です。
本記事では、C98が遺した功績と、物理的な場所を失ったオタクたちがどのように連帯したのかを解説します。
史上初の中止決断とC98の特異性
C98は当初から、コミケの歴史において極めて特殊な立ち位置にありました。開催時期の変更や社会情勢の変化など、多くの要因が重なっていたからです。
ゴールデンウィーク開催という異例のスケジュール
例年、夏のコミックマーケットは8月中旬のお盆の時期に開催されます。しかし、2020年は東京オリンピック・パラリンピックの開催が予定されていました。
東京ビッグサイトがプレスセンターや競技会場として使用されるため、通常の夏開催はできませんでした。そのため、C98は史上初めてゴールデンウィーク期間の5月2日から5日に開催される計画だったのです。
新型コロナウイルスによる苦渋の中止発表
開催への期待が高まる一方で、2020年初頭から新型コロナウイルスの感染が拡大しました。準備会はギリギリまで開催の道を模索しましたが、3月27日に中止を正式発表しました。
1975年の開始以来、コミックマーケットが開催自体を中止するのはこれが初めての事態です。数十万人が密集するイベントの性質上、参加者の生命と安全を守るための避けられない決断でした。
カタログ支援購入に見る経済的連帯
イベントの中止は、主催者に甚大な経済的打撃を与えます。しかし、この危機に対して参加者と企業が見せた連帯は、驚くべきものでした。
埋没費用の危機と参加者の支援
中止が決定した時点で、紙のカタログはすでに印刷・製本工程に入っていました。製造を止めることはできず、多額の費用が「埋没費用(サンクコスト)」として確定してしまったのです。
準備会は「コミケの継続に対する支援」として、イベントがないにもかかわらずカタログの購入を呼びかけました。これに対し、多くの参加者が「未来の開催への投資」として購入に応じ、通販サイトでは完売が相次ぎました。
流通業界と企業の協力体制
同人誌流通を担う企業も、この危機に迅速に対応しました。大手ショップである「メロンブックス」と「とらのあな」は、カタログ売上の全額を準備会に寄付するという異例の措置を取りました。
各社の対応は以下の通りです。
| 企業名 | 施策内容 | 意義 |
|---|---|---|
| メロンブックス | カタログ売上全額還元 | インフラ維持を優先し、マージンを放棄 |
| とらのあな | カタログ売上全額還元 | クリエイター支援と業界の持続性を模索 |
企業としての運命共同体意識
この施策は単なる慈善活動ではありません。コミックマーケットという巨大なエコシステムが崩壊すれば、流通業者自身の存続も危うくなります。
彼らは、コミケと自社が運命共同体であることを強く認識していました。この迅速な判断が、多くのファンの心を動かしたといえます。
幻となったリストバンドとDVDカタログ
一方で、入場証代わりとなるはずだったリストバンド型参加証はその機能を失いました。電子媒体であるDVD-ROM版カタログも、製造プロセスの都合で発売中止となりました。
結果として、支援の象徴は「紙のカタログ」に一極集中することになります。物理的な「モノ」を購入することで、参加者は運営への意思表示を行いました。
「エアコミケ」の創出とデジタルへの移行
物理的な開催は断念されましたが、そこで終わらないのがコミケの強さです。SNS上で自然発生的に生まれた動きが、公式イベントへと昇華されました。
自然発生した「エアコミケ」という概念
中止決定直後から、Twitter(現X)上で「エアコミケ」という言葉が飛び交い始めました。「エアギター」のように、実際にはないイベントがあるかのように振る舞う遊びです。
準備会はこの草の根の動きを公式に採用し、予定されていた開催期間に合わせて「エアコミケ」を実施すると宣言しました。これは単なるお祭りではなく、「がんばろう同人」プロジェクトの一環として位置づけられました。
公式による「仮想ビッグサイト」の構築
公式WebサイトやTwitterでは、本来のスケジュールに合わせて開会・閉会のアナウンスが行われました。これにより、参加者は自宅にいながら「イベントの時間軸」を共有できました。
中止となったC98のWebカタログも公開が継続されました。物理的な即売会は消滅しても、情報のインデックスとしての機能は維持されたのです。
放送メディアを通じた情報発信
準備会はドワンゴと協力し、ニコニコ生放送などで特別番組を配信しました。コミケの歴史を振り返るトークや、裏方スタッフの業務紹介などが実施されました。
普段は表に出ない印刷会社や設営スタッフの声が届くことで、インフラの重要性が再認識されました。これは、オンラインならではの教育的な側面を持った企画でした。
デジタルプラットフォームでの経済圏
エアコミケは精神的なつながりだけでなく、実質的な経済活動の場としても機能しました。各企業はオンライン特設会場を設け、商流を維持しようと試みました。
DLsiteによる特設会場の賑わい
ダウンロード販売大手のDLsiteは、エアコミケの中核的な商業エリアとなりました。4月末時点で2万3000を超える作品が登録されるほどの規模でした。
特設ページでは会場アナウンスの音声を流すなど、臨場感を演出する工夫が凝らされました。期間中に販売開始する新作を用意することで、即売会特有の「いま買わなければ」という熱量を再現しました。
企業ブースのオンライン転換
本来、西・南展示棟に出展予定だった企業もオンライン上での展開に切り替えました。コピックなどを扱うG-Tooは、オンラインくじや限定グッズ販売を実施しました。
出版各社も電子書籍キャンペーンを展開し、物理的なブースの代わりとなるプロモーションを行いました。場所を失っても、企業とファンの接点はデジタル上で保たれたのです。
文化的な「場の共有」の再現
エアコミケで特筆すべきは、購買以外の「参加体験」までもが再現されたことです。コスプレや食事といった要素が、ハッシュタグを通じて共有されました。
視覚で楽しむ「エアコスプレ」
コミケの華であるコスプレは、「#エアコスプレ」というタグで展開されました。参加者は自宅で撮影した写真や過去の写真を投稿し、タイムラインを彩りました。
物理的な合わせや囲み撮影はできません。しかし、更衣室の待ち時間や天候に左右されないため、より自由な表現の場として機能した側面もあります。
味覚を共有する「コミケ飯」
会場周辺での食事や打ち上げも、コミケの重要な儀式です。準備会は「求む、みんなのコミケ飯!」と呼びかけ、食事画像を募集しました。
同じ時間に食事を摂ることで、離れていても同じ時間を過ごしているという感覚が生まれます。これは、同時性(シンクロニシティ)を高めるための重要な仕掛けでした。
C98が遺したレガシーと未来への展望
C98は「開催されなかった回」として記録されますが、その影響は計り知れません。物理的な接触が断たれたとき、コミュニティがいかにして結束を守るかという社会実験でもありました。
カタログ購入による資金的支援と、SNSを通じた文化的連帯の両輪が機能したことで、コミケというシステムは崩壊を免れました。参加者がイベントを「単なるサービス」ではなく「共有財産」として捉えていることが証明されたのです。
この経験は、その後の開催における電子チケット導入などのDX化を加速させました。C98での苦難と挑戦は、同人文化の強靭さを証明する大きな転換点として、今後も語り継がれることでしょう。

